場所ではなく、いかに同志を集めるか。東北・三陸海岸の音楽フェス KESEN ROCK FESTIVAL / 東北ライブハウス大作戦・千葉裕昭さんインタビュー


 宮城県女川町で開催された東北ジャム2015 in 女川にて、「女川にやっとフェスがやってきました」とステージ上で声を震わせながら涙で語る実行委員長の姿を見て、涙を流していた人たちがいた。筆者が生まれ育った東北の三陸沿岸の片田舎の街のフェスに「ボランティアにきてよかった」と言ってくれた人たちがいた。ライブハウスもフェスも楽器店も、CD店でさえも満足にないような三陸沿岸の街々に何か「音楽」が芽吹き始めている…そんな気持ちに生まれて初めてなった時々だった。
 今回話を伺った千葉裕昭さんは、岩手県住田町にて建設業を営むかたわら、KESEN ROCK FESTIVAL副実行委員長として活動し、さらにライブハウス・大船渡FREAKS誕生のきっかけを作り、それを支えるプロジェクト、東北ライブハウス大作戦大船渡支部長としても活動をしてきた。本インタビューでは千葉さん自身が東北という「地方」にとらわれず作り上げてきた「フェス」、「ライブハウス」、そしてそこから見える「地域・街」に迫った。

取材・文:紺野泰洋
写真:ZENIM @ZENIM0226

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KESEN ROCK FESTIVAL…毎年7月第2週末に、岩手県住田町の種山ヶ原で2009年より開催されてきているロックフェスティバル。さまざまな職種・それぞれにスキルを持った無謀な実行委員たちが、ステージを手作りし、「ロックフェスとは何か」 も知らないまま全てお手製で作った「フェス」であり、その「ほのぼのさ」、「温かさ」、個性豊かなTwitterが話題を呼び、アーティストや観客双方から大きな支持を受け続けている。主な出演者として、ASPARAGUS、the band apart、THE BACK HORN、bloodthirsty butchers、BRAHMAN、HAWAIIAN6、IN-pish、locofrank、ストレイテナー、10-FEET、TILITILI、ほか多数。 kesenrockfes.com

大船渡FREAKS…PAチーム、SPC peak performanceが中心となって開始された、東日本大震災の被災地にライブハウスを建設するプロジェクト「東北ライブハウス大作戦」において、岩手県大船渡市に2012年8月に誕生したライブハウス。「多くを学び、多くの仲間達と様々なことを分かち合えた『ライブハウス』を、人と街と世代を橋渡し出来る『場』を東北に作る」ことが掲げられたそのプロジェクトにより、他に石巻BLUE RESISTANCE、KLUB COUNTERACTION宮古といったライブハウスが誕生している。

田舎の運動会っていわれることもあるし、泥んこフェスとか、田んぼフェスとか、いろんな言われ方をしてる

――大船渡FREAKSができて昨年2015年8月で3周年。地元の方々へライブハウスは徐々に受け入れられてきていると思うのですが、千葉さんご自身が地元にライブハウスができると決まった時はどのようなお気持ちでしたか?

千葉:実は昔から地元の飲み屋でライブハウスもどきをやってたんです。そこの飲み屋のママがthe band apartのメンバーと友達で、デビューにあたり大船渡でライブをしてみたいっていうのがそのイベントの始まり。だから、震災の後に東北ライブハウス大作戦ができて、それはとてもありがたかった。

千葉裕昭さん
今回話を伺った千葉裕昭さん

――そのイベントの流れが、KESEN ROCK FESTIVALの前進である、大船渡市青年会議所40周年記念で開催された2008年の大船渡ロックフェスティバルにつながっていくのでしょうか。

千葉:2007年第1回のいしがきミュージックフェスティバル(※1)を見て感動した当時の理事長が、いしがきのようなステージを大船渡でできないかということで、いしがきのステージをつくっている業者に頼んでできることになりました。その時に、そのイベントのブッキングを担当していた飲み屋のママにだれか呼べないって話が青年会議所からいって、そこからthe band apartの方にも相談して、こういうフェスがあるんだけれども、だれか友達いないかなってお願いしたんだったと思う。

※1) いしがきミュージックフェスティバル…岩手県盛岡市、盛岡城がある岩手公園を中心にて2007年より開催されている東北最大級のフリーフェス。

――そのような中で、2009年からは千葉さんも実行委員になりKESEN ROCK FESTIVALが始まるんですね。

千葉:2009年も大船渡ロックフェスティバルをやろうという予定だったんだけど、2009年の1月・2月位に開催ができない可能性が出てきてしまったんです。昨年の会場の場所が使えなくなってしまった。その時に、ブッキングを担当していた飲み屋のママが困って俺にできるような場所ないかなって聞いてきたときに、俺はフェスをやるなら種山ヶ原で、としか頭になくて、ふた返事くらいで「あるよ」って。だけど、4月後半ぐらいに雪が解けて、やっと会場まで車が上がれるようになった時にその場所を見に行ったら、足場が悪すぎてみんな啞然として「無理だよここじゃ」って。(笑)それでもできるって言ってくれた人がいしがきでステージを作ってくれていた業者さんだった。ただ、「ステージの足場から上はできるけど、ステージの足場はちょっと無理かな」って言われて。それで、うちの大工さんに相談したら作ろうって言ってくれて、その場にある材料で作り始めたんですよ。その時はそのステージ土台がどれぐらいの期間で作れるのものなのかわからなくて、実際作り始めたのが6月20日ぐらい。チケットはもう売れてて、ポスターも出来上がってて、ステージだけ出来てないような状態で。それで、本来の仕事も持ってるから、その仕事が終わって、夜に種山ヶ原へ上がって土台を組み始めたんだけど、「これ終わんないな」って思ったけど、それからもう本当にいろんな人に助けられて、なんとか作った。その時はもう夜中二時三時までやってたのかな。

――ステージの土台から自分たちの手で作っていく。「田舎の手作りフェス」と呼ばれることも多いKESEN ROCK FESTIVALのらしさだと思います。

千葉:KESEN ROCK FESTIVALのらしさっていうのは、フェスに関して俺も含めて、みんなが無知なところかな。「フェス」っていう名前は使っているけど、田舎の運動会っていわれることもあるし、泥んこフェスとか、田んぼフェスとか、いろんな言われ方をしてる。俺はほめ言葉としか受け止めていないんだけど、ほかを知らないからあれしかできないんだよね。当時はもうフェスって、検索してフェスってなんだっていうような状態だったし。(笑)そんなところからはじまっているから、俺はあれが地元でやれる全力だと思っていて。そうしたら、KESEN ROCK FESTIVALが終わった後にTwitterでケセンブルー(※2)なんて言葉が生まれたりして。

※2) ケセンブルー…フェス、ライブ後に感動した感情を「○○余韻」などと表現することがあるが、KESEN ROCK FESITVAL後はSNS上で、「ケセンブルー」という言葉が同意で用いられることが多い。

――今はいろいろなフェスを回ってこうやればいいっていうのがわかってきている中で、それでもなおその今自分たちがやってきた最初の気持ちは変えないし、変わらない。

千葉:チケットの先行販売分は2009年から全部こちらから手作業で送ることにしているんです。そのなかに大船渡とか陸前高田とか住田町の地元のパンフレットをいれるんですね。それがやりたくて仕方ない。帰りにぜひ寄ってくださいねっていう意味もあるし、ちょっと時間あるときに眺めてもらってもいいし。それで、少しでも「行ってみようか」ってなればいいなっていう思いが実行委員のみんな強くて。

――KESEN ROCK FESTIVALのテーマも「ふるさとを盛り上げ、自分たちが誇れる町を作ろう」というものです。やはりKESEN ROCK FESTIVALがどんどん展開していく中で街に対する自分たちの中での感覚は変化したのですか?

千葉:変化は実際ないかな。だけど、KESEN ROCK FESTIVALを通じて、住田町、陸前高田、大船渡っていう名前がその人の記憶に残ると思うんです。そうして、例えば東京やもっと遠くから来てくれる人が自分の街にその記憶を持ち帰ってくれるというところが、俺はすごい好きで。例えば、広島に帰って、「岩手のケセンロックフェスってのに行ってきたんだよね」って飲み屋とか食堂とかで友達に話すわけですよね。俺はそういう形で街の名前がどんどんと伝わっていけばそれだけでいいと思う。自分たちで何か特産品を送れるわけではないし、何か劇的にこの街を変えることができるようなものを考えられるかって言われればそうではないけど、ただ、人の記憶にのこるなっていうのがあるときにやろうってなるのね。

――大船渡市、陸前高田市、住田町。気仙郡の街の名前が人々の記憶に焼き付いたのはあの震災の影響も大きかったはずです。KESEN ROCK FESTIVALも2011年は開催中止という決断でした。それが一年後に復活できたきっかけは何だったのでしょうか?

千葉:それは本当にKESEN ROCK TOKYO(※3)のおかげかな。あと、KESEN ROCK FESTIVALでつながったアーティストも支援物資を持ってきて毎月来てくれたんですよ。それで、みんなで飲めばKESEN ROCKをまたやろうよって熱い話をみんなから聞いて、そのうちにこれはやんなきゃダメだなって思うようになったんだよね。

※3) 東日本大震災後、計10回にわたって、有志のアーティストらによって都内ライブハウスで行われたKESEN ROCK FESTIVAL復活支援イベント。

――震災後には「被災地」や「震災」といった言葉がフェスに付随して用いられてきたと思います。KESEN ROCK FESTIVALも震災前と後で変えたところ、変わってしまったところはあるのでしょうか?

千葉:もちろん、「震災」って言われるんだけど、震災復興っていうのは‘12以降あんまりうたいたくないねっていうのは言っていて。なぜかというと実行委員もいつまで被災者なの? いつまで被災地なの? これいつまでいえばいいの? っていう感覚があって。時には話の流れで出たりはするけれども、極力使わないようにしてる。

―― 一方で、震災後には東北ライブハウス大作戦もですが、この三陸沿岸でフェスがたくさん始まってきました。そして、そこで模範とされるようなフェスのひとつがKESEN ROCK FESTIVALなのかなと思っています。

千葉:BRAHMANのMCでも言われたからね。「ケセンみとけ」って。ただ、ウチのスタイルをマネできないと思いますよ。うん。その地域のやり方があると思うし、「想い」だけじゃやっていけないところもあるから。

――昨年残念ながら実施できなかった南三陸町のHOPE FESTIVALや、2013年にあった陸前高田市のYOUR FESTIVALなども続けていくのが難しい中で、短い期間で終わってしまうフェスと継続していくことができるフェスの違いというのは何かあるのでしょうか?

千葉:あんまり「フェス」っていう見方ではなく、あの時、あの時期にみんなが欲しかったものを持ってきてくれたっていう見方をしているのね。あの時やっぱりほしかったのは音楽で、それをユアフェスはあんなところでならしてくれた。それを続けるかどうかっていうより、あそこで求められていた音楽をあそこで鳴らしてくれたあのユアフェスは一回きりだったけれども俺はすごいなって思ってる。だから次の年ないねって思うのも俺はなんか違うような気がしていて。

――KESEN ROCK FESTIVALが毎年開催されているという事実は、そこで求められている音楽があるということなのでしょうか?

千葉:ケセンに向けて人が集まっていって、会議に行きゃ人がくるしさ。ダメだしするやつもいるし、しょっぺえ話をするやつもいるけど、それっていうのはさ、「やろう」っていう話じゃん。それでいろんな話をしていって、「じゃあやろうか」ってなる。毎年そう。だから今の段階から来年とか再来年はあまり見ていない。

「場所」じゃないって思う。いかに「同志」を集めるか、なんじゃないかな。

――求められている音楽をその場所で鳴らすこと。東北ライブハウス大作戦が、大船渡FREAKSがやってきたこともまさにそれだと思います。大船渡FREAKSが起点となってみんなが繋がっていく。

千葉:FREAKSに関しては持ち込みのイベントとかも多くなってきていて、最近では、萬福食堂(※4)企画でイベントを二回もやってくれたり、宮古の女の子がイベントの企画をKLUB COUNTER ACTION宮古と大船渡FREAKSでやってくれたり。お客さんに関しては、以前のFREAKSってやっぱり「キッズ」って呼ばれてる子たちが多かったんだよね。でも、今のこういうアコースティックのスタイルになったらまあこの子たちは来ないわけですよ。(笑)それで「来なくなったね」、「しょうがないね」って言ってたけど、今度はアコースティック好きの子たちがジワジワと来てくれて。この前のイベントだと気仙沼、遠野、釜石からきてくれたかな。あと地元の人たち、大船渡はもちろんいるし。それこそ仕事終わりで来てくれる人もいるから。

※4) 岩手県奥州市にある食堂。KESEN ROCK FESITIVALのケータリングも同店で行っている。

大船渡FREAKS
大船渡FREAKSの会場様子

――以前は出演の敷居が高いという声もあったようですが。

千葉:あまり聞こえなくなったね。当時は地元のアーティスト呼ぶと、敷居が高いっていうのは言われてたけど、そんなことない、いつでも飲みに来たついでにやればいいのにって言ってたらそんな声も聞こえなくなってきて。(笑)地元のバンドも増えてるし、昔ここにいた人たちがまた来てくれてるんだよね。

――移転など、行政との関係も大変と思います。

千葉:大船渡市はライブハウスに一目置いていて、ぜひやってくださいっていうことなんだよね。やっぱり前の店舗で、実績を出してるわけですよね。ライブがあればアーティストが宿泊する、お客さんが宿泊する、もう店舗近くの大船渡プラザホテルは満室で泊まれないっていう状態が本当に続いていたんです。それを市の方も見ていて、市はぜひ!ぜひ!続けてくれって言ってくれていて。

――そうして、新しくできることになるであろう大船渡FREAKSのイメージをお話ししていただけますか。

千葉:いま、数々のいろんな街を手掛けているプロが大船渡の商工会議所から委託されて「まちづくり会社」っていうのが設立されて動いているんです。あたらしい街を作るらしいんです。それでFREAKSも、ひとつの街をつくるうえでたとえば外観だったり、入り口の表情を街に合わせて作っていこうということをいま考えてます。それじゃあみんな同じで面白くないんじゃないのっていう声もあるけど、ほかの都市なんかに行くと、そういう街を作るとお客さんが来るんです。だから外観に関して、俺はそのほうが良いと思うし、任せようかなって。中身は今勉強中です。この間も渋谷CLUB QUATTROで仕込みから、本番・撤収まで見せてもらって、えらい影響受けてきたけど、あれはできないだろうから(笑)。行くところ行くところ参考に見ている最中だから、具体的なイメージはまだ全然固まってないかな。

――地方で、それも一からみんなでフェスを作ること、ライブハウスを作ることには難しさもあれば、それだからこそ得ることができることの双方があるのではないでしょうか?

千葉:すごくいろんな人と繋がれたことは本当に財産で。俺、本当に土建屋で終わっていくのかなって考えたこともあるけど、まさかKESEN ROCK FESTIVALをやることによって、この人とは知り合わなかっただろうって人と知り合ったりして、これだけでも俺はやっててよかったなって思うし、またやりたいって思う。うちの実行委員・スタッフは一回東京行って、長男で帰ってきたりとか、家の都合で帰ってきたりとか、実家の後を継いでいるって人たちが多いし、若いころ街の外へ出たけれど戻ってきちゃったっていう経験をしてる人は結構多くて。それでも自分たちが今やれることっていうのを考えたときに「地方」っていう意識はあんまりない。当時はもちろんあったけど、もうKESEN ROCK FESTIVALも大船渡FREAKSもできたし。ひどい思いをしたことあったけれど、すごくいい経験にもなったからこそ、俺は何でもできるなってすごい思っている。

――その「地方」にとらわれないという意識がなぜ生まれたのでしょうか?

千葉:人のつながりは大きいよ。やっぱり同じ思いをしてる同志が多い。それで、何かをやると同志は増えるし、人が集まれば何でもできるなってすごい感じてる。FREAKSが区画整理で閉店になって仮設店舗でもいいからまたやろうよってなった時に、FREAKSの周りにこうやっていまたくさんの人が集まってきてくれてる。だからこそ俺は「場所」じゃないって思う。いかに同志を集めるか、なんじゃないかな。

――最後に、東京の音楽ファンへ一言お願いします。

千葉:まだ全然復興は終わってないけど、当時よりも断然来やすくなってるから一度、街を見てもらいたいなっていうのはあるかな。バンドでみんなでイベント組んで、みんなでお金出し合って来てくれれば、大船渡FREAKSというライブがやれるところ、ライブがみれるところ、RACCOS BURGERっていうハンバーガーが食べられるところがあって、そこで人と繋がれるし、いろんな話も聞ける。だからすげえライブハウスって面白いなって。もし俺が東京に住んでたら絶対行きたいなって思うのね。だから何かのきっかけがあればって思っている人がいれば今は仮設店舗だけどぜひ来てもらいたいなって思う。

INFORMATION

KESEN ROCK FESTIVAL

公式HP:http://kesenrockfes.com/
公式Twitter:@KESEN_ROCK_FES

大船渡 FREAKS

住所:大船渡市大船渡町字茶屋前57-6 おおふなと夢商店街C棟1号(RACCOS BURGER OFUNATOと同店舗)
公式HP:http://www.go-freaks.com/
(改装中。情報はTwitter・Facebookにて。)
公式Twitter:@LIVEHOUSEFREAKS
公式Facebook:LIVE HOUSE FREAKS

RACCOS BURGER OFUNATO

住所:大船渡市大船渡町字茶屋前57-6 おおふなと夢商店街C棟1号(大船渡FREAKSと同店舗。)
営業時間:11:30~15:00(14時Last Order)/ 18:00~0:00(23時Food Last Order)
定休日:木曜日
忘・新年会、誕生会などの予約・貸切可。お問い合わせは TEL0192-47-5552まで。
公式Twitter:@RACCOSOFUNATO