ドキュメンタリー映画監督がAVメーカーハマジムに転職!? 昆虫キッズ、スカート、どついたるねんを撮り続ける映像作家・岩淵弘樹インタビュー


 ふざけんなよもう 納得いかねえよ、俺は。 
 惜しまれつつも今年1月をもって活動終了したロックバンド・昆虫キッズ。最後のライヴアルバム『さようならからこんにちは』の特典DVD冒頭には、居酒屋にて昆虫キッズのVo.高橋翔が、ドキュメンタリー映画監督・岩淵弘樹に解散することを説明するシーンが描かれる。岩淵の「ふざけんなよもう」という声に端を発するようにそこから本編は、その夏の昆虫キッズのラストツアー映像と、2006年から始まった昆虫キッズの映像が交錯しながら、彼らの約9年が綴られる。結成間もない頃からずっと追ってきた岩淵だからこそ作ることのできる、ロックバンドの軌跡が詰まった作品だ。
 今回取材させていただいた岩淵弘樹は、ドキュメンタリー監督として作品を発表する一方で、昆虫キッズやスカート、どついたるねんなど数多くの東京で活躍するミュージシャンを撮影している。そんな彼が今年6月、カンパニー松尾率いるAVメーカーハマジムに転職。ハマジム・カンパニー松尾といえば、昨年AVでありながら劇場公開で大ヒットした『テレクラキャノンボール2013』の監督である一方、岩淵も敬愛するシンガー・ソングライター豊田道倫を撮り続けていることでも有名で、ハマジムでその作品も発売されている(『豊田道倫 映像集Ⅱ』)。また、今年9月には、ハマジムの新鋭・梁井一によるどついたるねんの18禁ライヴ記録映像『どついたるねんライブ』が発売・劇場公開。全国劇場公開も決まり、現在大躍進している最中だ。そんなハマジムに転職した岩淵自身が、最初どのように音楽と接点を持ち、撮影するようになったのか。また、ハマジム転職によって今後なにを起こそうとしているのか、なにが起きようとしているのか話を伺った。

構成・文 / 藤森未起 取材 / 藤森未起・小林ヨウ
写真 / ハムカツ(げんた)

profile

岩淵弘樹…1983年宮城県生まれ。ドキュメンタリー映画監督。大学卒業後、埼玉県の工場で派遣社員として働く。その生活を記録したドキュメンタリー映画『遭難フリーター』が山形国際ドキュメンタリー映画祭2007ニュードックスジャパンに招待され、2009年に一般劇場公開。その他作品に『サマーセール』『サンタクロースをつかまえて』。また、今年1月に活動終了した昆虫キッズをはじめ、どついたるねん、スカート、その他多数のアーティストのライヴ撮影・MV制作等を手がける。今年6月にAVメーカーハマジムに転職。

2016/8/23 UP
岩淵氏の近況について『山口雅のやさしい味噌カツ vol.14』
http://member2.pornograph.tv/teigaku/item.php?ID=c011_014
岩淵弘樹監督最新作『モッシュピット LIVE VERSION』
http://www.hamajim.com/news/20160812-210837.php

松尾さんの作品から、映像っていうのは1人でもできるっていうのを感じてたんで、昆虫キッズってバンドでもそれができるんだっていう気持ちでやっていました

――まず最初に、どのように岩淵さんが音楽と接点を持ったのか知りたいのですが、10代の頃は、どんな音楽を聴いてたんですか? 

岩淵:いろいろとラジオを聴いて、主に邦楽をメインで知っていくんですが、中学校くらいのときに、サニーデイ・サービスの「東京」ってアルバムを友達のお兄さんから借りて。他の人は全然知らないけど、自分はこのアルバムがすごく良いなって思って、カセットテープに入れて何回も繰り返し聴いてました。そこからもっと聴いたことのない音楽を聴いてみたいなって思っていろいろ聴いてましたね。

――それで豊田道倫さんにも行き着いたってかんじですか?

岩淵:『ラブ&ポップ』(1998年)っていう映画の予告とメイキングをカンパニー松尾さんが作っていて。そこで豊田さんの前身・パラダイス・ガラージの「I love you」っていう曲のサビが一節使われていて、良い曲だなって思ったんです。それでパラダイス・ガラージのCDを買ったらすごく良くて、中三か高一くらいのときにそれを聴いてからずっと好きでしたね。

――豊田さんを知ったきっかけもカンパニー松尾さんきっかけなんですね。

岩淵:偶然ですけどね。

――その豊田さんのライヴで、岩淵さんと、昆虫キッズの高橋さん、昆虫キッズのマネージャー熊谷さん、スカートの澤部さんが出会ったという話は、今年1月に行われた昆虫キッズの解散ライヴで、前説を務めた澤部さんが語っていましたね。

岩淵:よく4人でお茶してましたね。 高田馬場のジョナサンで。澤部はまだ高校生だったので。それまで、みんな音楽を一人で聴いてたじゃないですか。でも、そこで話をしたら、みんな同じセンスというか、共有されないと思ってた気持ちがすごい共有されていく感じが嬉しくて楽しくて。

――ちょうどその年は、『遭難フリーター』を撮っていた2006年の話だと思うんですが、小説を読んでいると、全然お金もないし、とにかく働いて働いて…という印象を受けます。実際ライヴにはけっこう行かれていたんですか?

岩淵:いや、行ってないです。2006年3月に、実家の仙台から埼玉に出てきて、それで工場勤めが始まるんですけど、その一年間は豊田さんのライヴに何回か行ったくらいで、特に他のライヴは全然行ってませんでした。2007年の2月に、高橋が昆虫キッズの前にやっていたBuzz links daughterっていうバンドのライヴに行って、そこではじめてライヴの撮影をするんですね。そのときにライヴを撮ってて楽しいという体験をしました。

――既にその頃、高橋さんや澤部さんは本格的に音楽活動をしていたんですか。

岩淵:その頃、澤部君は既にスカートって名前で、ヤフーのオンラインストレージサービスに宅録の音源をあげていて、「この子はすごく良い音楽を作るな」って思ってました。高橋はBuzz links daughterを解散したあとに、昆虫キッズを結成して活動し始めたんですね。当時は実家に戻って仙台に住んでたんですけど、昆虫キッズのファーストCD−Rが送られてきて、その中の「ガラスのディスコ」って曲が面白いなって思って、MVを勝手に俺が作ったんですね。携帯で撮った映像で。そのときはじめてYoutubeに映像を投稿する機能を知って、アップしました。それが2007年の5月くらい。

――昆虫キッズのライヴは仙台にいながらも東京まで通っていたんですか?

岩淵:2007年は通ってましたね。やっぱり、撮影するのが楽しかったんですよね。普通ライヴ映像って、たくさんのカメラがあって、いろいろな動きをするじゃないですか。だけど、カンパニー松尾さんが撮っていた豊田道倫映像集では1カメで撮られているんですね。僕、松尾さんの作品から、映像っていうのは1人でもできるっていうのを感じてたんで、昆虫キッズってバンドでもそれができるんだっていう気持ちでやっていました。でも後々、1カメだとやっぱり高橋に寄ってしまうんで、大きなライヴではカメラマンを呼んで、バンドの色んな姿を撮ってもらいました。

――他に昆虫キッズ以外にも撮っていたりしたんですか?

岩淵:基本的には昆虫キッズをずっと追っていたんで、昆虫キッズが対バンしていくバンドとかと知り合っていくってかんじですね。2007年に高円寺無善寺での昆虫キッズの自主企画があったんですけど、そのときはじめてバンドのスカートを撮ります。

――昆虫キッズを撮りながら、一方で『遭難フリーター』が話題になっていきますよね。 2007年10月に山形国際映画祭で初上映、2008年に劇場公開が決定、2009年3月に『遭難フリーター』ーが一般劇場公開されますが、同じ月に昆虫キッズのファースト・アルバム『My Final Fantasy』も出るじゃないですか。そして同じ年の秋に昆虫キッズと豊田さんで一緒にCDも出すし、岩淵さんもそのMVを撮っています。すごい流れが2009年にばばっと来ますね。

岩淵:その少し前に、昆虫キッズと共通の友達の麓健一っていうシンガー・ソングライターもファースト・アルバム『美化』を発売していて、3人が一緒にスタートを切れたのは、すごく嬉しかったです。

――その秋に豊田道倫with昆虫キッズ『ABCD』が出ますが、そこで豊田さんとは初仕事ですか。

岩淵:その前に、豊田さんのライヴを何度か撮影させてもらっていました。で、あるときカンパニー松尾さんがライヴに来るんですよ。すごく緊張して「今日のライヴ撮ってもいいですか?」って聞いたら、「豊田くんのライヴに決まりはないんだから、撮りたい人が撮ればいいんだよ。」って言ってくれて。さりげない言葉ですけど、撮る人によって見え方が全然違うし、そんなことを教わりつつ、豊田さんのMVを撮りましたね。

――めちゃくちゃかっこいいですよね。

岩淵:これもまたカンパニー松尾さんの話になるんだけど、豊田さんのライヴで松尾さんと会って、MV見たよって言われて、感想を聞いたら、「あれでいいんだよ。豊田くんはロックシンガーなんだから、ああいう風にカッコよく撮るのでいいんだ」って言ってくれて、それはすごい嬉しかったですね。

――カンパニー松尾監督の話がたびたび出てきますが、昆虫キッズや豊田さんのライヴやMVに関わりつつ、松江哲明監督の『ライヴテープ』(2009年)や、『トーキョードリフター』(2011年)にもスタッフとして関わっていますね。 調べたところ、松江さんが『遭難フリーター』を見て映画のトークショーで岩淵さんに説教するというエピソードを拝見しました。

岩淵:『ライブテープ』はスタッフではなく、後にメイキングを作らせてもらいます。『遭難フリーター』の劇場公開が始まって、松江さんがブログに映画の感想をキツめに書いてくれていて、それで上映後のトークゲストにお呼びしました。それが初対面ですね。松江さんに怒られたっていうのは、俺は「映画を撮る」っていうより、自分の生活の記録みたいに作ってたから、映画っていうものをそこまで意識していなかったからだと思います。今は松江さんが言ってることすごくわかるけど、当時はよくわからなかったです。 映画として人に見せることは、ただの生活の記録だけじゃダメなんだということが。
 それから、2011年の正月に突然松江さんから電話があって、引っ越しの手伝いに行ったとき、『DV』(2011年)という作品を自主で発売する話を聞き、その発売イベント『DV Fes2011』のスタッフになります。イベント後に「ライブテープを今度DVD化するんだけど、岩淵君メイキングやってみる?」って言われて、メイキングを作らせてもらいました。それから松江さんは震災後の計画停電で暗くなった街を見て、『トーキョードリフター』っていう映画を撮るんですけど、自分は『ライブテープ』のメイキングを作っていてよく松江さんと会っていたので、そのまま制作として参加しました。

――松江監督は豊田道倫のMV制作や、ハマジムからも作品を出しているので、その繋がりから松江監督の作品に関わるのかと思っていましたが、違うんですね。その時期に、松尾さんや松江さん以外にも関わりのある監督はいましたか?

岩淵:ないですね。でも、もともとを辿ると、学生のときに出会った土屋豊さんが最初の師匠です。映画監督であり、ビデオ・アクティビストっていう、映像を使って社会に物事を訴えかけるっていうような人がいて、土屋監督が昔作ってた「新しい神様」っていう作品や、ハーモニーコリンやラースフォントリアーのドグマ95の映画に興奮し、今に繋がっています。